もしすべてのひとがダンスを踊るなら、それを見る人はだれ?

もしすべてのひとがダンスを踊るなら、それを見る人はだれ?

カメルーンの諺らしい。本当だろうか、嘘だろうか。そうだと言う人がいるけれど、彼が嘘つきかどうか、どうして分かるだろう。

それは脱線だけれど、この言葉はその通りだと思う。

日々、表現者の数は増える一方だ。ツイッターフェイスブック、ブログは勿論、ユーチューバー、生主、絵師にバンドマン、作家、写真家、エトセトラに次ぐエトセトラ。

何故だろうか。一つはテクノロジーのお陰だ。紙とペンを用意して、辞書を引き、消しゴムを使って書き、大量に印刷してあっちこっちの壁に貼って回らなくてもいい。録音した音楽をラジカセに入れて、世界中に置いて回らなくてもいい。フィルムはいらない。物理的な現像技術もいらない。展示場を開く必要もない。大体の事は、パソコンがなんとかしてくれる。つまり、手軽になったという事だ。

一つは、人の性なのだろう。実際、そうしたい人間が沢山いる。つまりは、人間は表現したい生き物という事だ。根拠はない。僕は学者じゃない。学者じゃなくても分かりそうな事だ。

手段があって、動機があれば、それは成されると言ったのは誰だろうか。誰かの言葉だった気がする。誰かの言葉でない言葉があったら教えて欲しい。なにかで読んだ気もする。殺人に関する記述だったような。

人間は潜在的表現者であり、表現に対する欲求がある。世の中をよく見ていれば、その通りだと感じる。けれど、そうだろうか? それは結果の話で、動機は別の所にある可能性は?

ただ表現したいだけなら、イイネが必要だろうか。RTやシェアの数を気にするだろうか。流行りを追いかけ、心にもない事を書き、或いは描き、写し、撮るだろうか。そうでない者は沢山いる。表現の為に表現し、書きたいから書き、描きたいから描き、写したいから写し、撮りたいから撮る。

けれどそれ以上に、他人に認められる為に行う者が多いのも事実だ。数えた事はないけれど、数えるまでもない事のように思う。イイネの為に書き、RTの為に描き、シェアの為に写し、再生数の為に撮るような人。或いは、人気の創作物を無断転載し、仮初の賞賛、注目を集める者の多い事。

不純な動機だと言いたいわけじゃない。純粋な動機がないように、不純な動機などないのだから。不純な動機があるという考えは邪悪だ。そして、普通だ。この場合の普通は、ありふれているという意味。

共感してもしなくてもいい。どう思うかは個人の自由だ。正しい感じ方があると信じる事は、不純な動機の存在を認める事と同じだ。

脱線に次ぐ脱線。けれど、重要な事でもある。

誉められたいと思う事、注目されたいと思う事は悪い事じゃない。良い事でもない。どうでもいい事だ。大事なのは、欲望や衝動を自覚する事。そして、コントロールする事。手綱を握り、振り回されない事だ。或いは、問題なのは、衝動や欲望に無自覚な事だ。知らない物をどうやってコントロール出来る? 我知らず振り回される事を望む人間がいるだろうか。

 

では、なぜ人は認められたいのだろうか。思うにそれは、生きている実感を得たいからだと思う。 自分という個が、巨大な社会の中に、何十億もいる群れの中に、確かに存在すると感じたいからだと思う。願わくば、その中のどうでもいい一人ではない、名前のない誰かではない、誰でもいい誰かでもない、たった一人の掛け替えのない私なんだと感じたいからだと思う。私という個は特別で、つまりは価値ある人生を送っており、他人よりも意味ある人間だと感じたいからだと思う。

しかし、何故だろう。問いは続く。問いは問いを生む。この問いは、まだ大きい。もっと小さな問いに分解できる。

本質という言葉は嫌いだ。大抵の場合、使う側にとって都合の悪い話を無効にする為に使われる。それは本質ではないと。そういう手合いは、本質が何か知りもしない。考えもしない。けれど、今はちょっと、他に丁度いい言葉が思いつかない。初めてのブログで、張り切って二本目を続けて書いたせいで、ちょっと疲れているという言い訳。

またしても脱線。寄り道には、本質的ではない意味がある。

どんなに複雑に見える物も、それを構成するシンプルな最小単位は理解しやすい単純な物だと僕は思う。つまり、それがこの場合の本質という奴だ。

 

なぜ人は認められたいのか、それは、自分という個を他の個と比べて特別だと思いたいからだ。しかし、それは何故だ。自分がないからだ。

他の個と比べて、というのがポイントだ。そこには常に、他人が存在する。自分以外の誰かが必要だ。つまり、相対的な価値観という事になる。

ある種の蝙蝠は、超音波を発して、その反響で周囲の様子を知る。これに似ている。何かを表現し、その反響で、自分を知る。誰かが褒めてくれたから、認めてくれたから、自分は立派な人間なのだと、そういう事になる。

自分のある人間には、そんなものは必要ない。我思う故に我在り。誰にも認められなくても、誰にも褒められなくても、自分にとって、自己というのは否応なく特別だ。立派だろうが、立派でなかろうが、逃れようがないし、変えようがない。だから、自分は常に、自分にとっては特別なのだ。

完全にそんな風に達観した人間は少ない。本当に、少ししかいないだろう。そんな人間になりたいとも思わないし、そんな人間が正しいとも思わない。どちらが正しいわけでもないし、完全にどちらかに偏ったような人間は、それはそれで問題があるように思える。

相対的な価値観によってのみ自己を定義する人間は、自分の手綱を他人に委ねる事になり、それは、自分を放棄する事に近しい。相対的な価値観を全く必要としない人間は孤独だとは言わないけれど、社会性の生き物である人の群れに馴染む事は難しいだろう。或いは、相対的な価値観がなければ、人は容易に怪物になる。

 

必要なのはバランスだ。人の性、或いは、知的生命体の、もしくは、精神の限界、他人なくして自己は測れないという事実を知り、それに依存するが故の承認欲求と、それに対する理解。けれども自分は常に自己にとっては掛け替えのない特別な存在で、自分の選んだ物は石ころ一つにしても、自分にとってはなによりも価値のある特別な物であるという認識の上での事実。

バランスを欠けば、人は際限なく注目を求める怪物になり果てる。或いは、他人から見える自分など気にもしない、たった一人の世界に生きる怪物に成り下がる。

 

ここで終わってはいけない。両方の価値観が必要なのだから、承認欲求は悪い物ではない。それは、誰もが抱える業のような物。空腹のような物と言ってもいい。腹が減るように、他人に認めて貰いたい、知ってもらい、褒めてもらいたい。ただし、食べ過ぎに注意。そして、それを求めるのは自分だけではない。自分が求めるように、他人もそれを求めている。

誰もが表現者になり得て、実際なりつつある今だからこそ、それを知る事が必要なのだと思う。

 

もしすべてのひとがダンスを踊るなら、それを見る人はだれ?

 

自分の欲を知り、そして、他人の欲を知り、踊っている人がいたら足を止め、素直な心で楽しもう。

とかく、表現者は嫉妬に狂いやすい生き物である。嫉妬は醜いが、嫉妬する事自体は悪くはない。空腹が悪ではないように。けれど、腹が減って他人の物を盗んだり、その他諸々の悪行に及ぶのは、言わずもがなである。

 

 

 

 

蛇足

今日日、説教は流行らない。いや、流行ってはいる。SNSを眺めてみると、為になりそうな説教がそれこそ星の数。けれど、誰も気にしない。私も気にしない。川の水のように、どこかに流れていくだけだ。川の水が途切れないように、いつか見たような説教がまた流れてきて、なに一つ学ばない者達が、なにかの儀式のようにイイネを押しては忘れ、忘れた頃にまた流れて来たのを目にしてイイネを押す。

そんな連鎖にはほとほと飽きた。かつて私は説教を流す側だった。私にとっての、山ほどあるロバの耳案件の一つである。それをここに埋める。ここに刻む事で、私の手から離れ、ボケた老人のようにツイッターやらなんやで百万回も言ったような説教を繰り返す事をやめられるだろう。

 

ドンキーホール

王子様の耳はロバの耳という童話を知っているだろうか。

子供のいない王族は、三人の妖精に子供が出来るようお願いする。妖精の力でお妃は子供を授かり、ついでに妖精は三つの贈り物をくれる。

1人目の妖精は美しさ、2人目の妖精は賢さ、他に授けるものが思いつかなかった3人目の妖精は、王子様にロバの耳を授ける。曰く、そんな欠点があれば威張らない王になるだろうと。

困ったのは王様。王子の耳がロバの耳だなんて知られたら、国中の笑い者になる。そういうわけで、帽子を被せる事にした。

やがて時は経ち、王子は美しく賢く育つ。勿論ロバの耳も立派に育つ。ロバの耳を隠す為、王子は一度も髪を切った事がなく、帽子の中は髪の毛でいっぱい。このままじゃいつ破裂するか分からない。

仕方なく、王様は床屋を呼び、ロバの耳について誰かに話したら首を刎ねると約束させる。ご心配なく、私は口の堅い男。自信満々に答えたものの、大きな秘密程言ってしまいたくなるのが人の性。

衝動に苦しむ床屋は教会に行って相談する。私は他言無用の秘密を持っている。これを誰かに言うと私は死刑になるが、しかし、一人で抱えるのはあまりに辛い。

神父の答えは、穴を掘ってそこに叫べというものだった。

神父の言う通りにすると、不思議と男の衝動は消え去り、心に平穏が戻る。しかし、またしても不思議な事に、後日、その穴から生えた葦が王子様の耳はロバの耳と歌い出し、羊飼いがその葦で笛を作ったからさぁ大変。

あっという間に秘密は国中に知れ渡る事ととなる。

このお話にはまだ続きがあるけれど、知りたいなら勝手に調べてくれ。僕の言いたい事を言うには、ここまでで十分。そして、ここからが本題。

 

口は禍の元というように、世の中には言わなければいい事が沢山ある。当たり前の事? そう、当たり前の事。だけど、世の中には当たり前の事が多すぎて、とても覚えていられない、守っていられない。今日も僕らは便座を降ろし忘れ、廊下の電気を消し忘れ、ドアを閉め忘れる。

脱線。でも、大事な事。当たり前の事を全て当たり前に出来たら、世の中の悪い事は全部なくなる。当たり前の事をきっちりやれる人間なんて一人もいないし、自分は違うと思うなら、思い上がりもいい所だ。

つまり、その最たる一つが、言わなくてもいい事を言いたくなる事。或いは、書く事。つまりは、誰かに伝えたくなる事。知って貰いたくなる事。共感して貰いたくなる事。共有したい事。人の性、或いは病、業か、欠陥。

SNSが普及している。ツイッターフェイスブック、そしてブログ。それはこの物語で言う所の穴だ。生きる事は辛い。辛い事ばかりではない。楽しい事は沢山ある。そうだろうか? それは人次第。それでも、辛い事のない人間はいない。

だから、愚痴を言いたくなる。おかしな人を見て、義憤にかられ、邪悪を正したくなる。新しく知った事を、新しい言葉を知ったばかりの子供のように見せびらかしてたまらなくなる。破廉恥な言葉を叫び、正義もなければ道徳的でもなく、道理に合わず、倫理観からも外れた事を言いたくもなるだろう。

言葉、言葉、言葉。僕らは言葉に支配されている。言葉なくしては想いを伝えられない。それは嘘。目で歌で、肌で性器で、僕らは想いを伝えられる。でも、言葉に縛られている人は多い。捕らわれている人が大半だ。

だから、僕らは僕らにとっての穴を必要とする。

SNSがる時代に生まれた事は幸運である。誰もがプライベートの穴を持ち、苦しみを、怒りを、遣る瀬無さを、その他諸々を共有し、すっきり出来る。けど、それこそが罠であり、間違いであり、過ちであり、罪でもある。

穴から葦が生えて歌い出すなんてのはインチキだけど、そもそもSNSは穴じゃない。誰でも見れるし、どこまで広がっていく、巨大な伝声管みたいなものだ。

そこで僕らは言わなくてもいい事を言い、書かなくてもいい事を書き、伝えなくてもいい事を伝え、広めなくてもいい事を伝え、一時はすっきりするかもしれないけれど、そのせいで誰かを傷付け、或いは自分を傷付け、傷つかなくとも、自分を歪め、他人を歪め、世界を歪め、貶める。特にツイッターフェイスブック、ミクシー、その他諸々のSNS

秘密の愚痴の筈だったのに、イイネ欲しさに変わる。もっと見て欲しくなる。注目して貰いたくなる。そうなると、愚痴は愚痴でなくなり、秘密は秘密でなくなる。自分は自分でなくなり、出てくる言葉は他人が求める言葉になる。イイネの為に小悪党に石を投げ、行動の伴わない演説を騙るようになり、神父モドキの説教を垂れ始め、自分は立派な人間だと誤解する。妖精よ、僕達にもロバの耳を授けてくれ。

そう願わずにはいられない。誰かのロバの耳を探して言いふらすような不毛の日々に飽きた人間がいる。彼は穴を掘り、そこに言葉を埋める。そこに歌う葦が生える事を知りながら。

つまりは、これが僕のロバ穴というわけ。

顔のない人間、誰でもない私。あそこではないここに、悪臭を放つ汚い言葉を埋める。ツイッターには書けない事、フェイスブックには載せられない事、他人の為ではない言葉を。僕の口から出る僕の言葉を。

願わくば、みんなも穴の恐ろしさに気づいて欲しいなんて事は思わない。その考えこそ、傲慢という奴だ。

願いはない。ここにあるのは、名前のない人間の埋めたただの言葉だ。

 

 

 

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